デジタルメディア教室(14)~「ハード・ソフト分離論」を思う ~

VRDigest編集部
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本記事は2002年に発刊したVR Digestに掲載されたものです。

■はじめに...「基幹放送」というものは?

 「ハード・ソフト分離論」......昨年末から今年の初めにかけて、この言葉は放送業界内で実によく聞こえてきました。そんな折、タイミングよく発刊された『ブロードバンド戦略勝敗の分かれ目(池田信夫著)』をお読みになられた方も多かったことかと思います。この本の主張は、実にハツキリしておりますが、こうした考え方が、今の放送業界を取り巻いているということも、わたしたちは自覚しておく必要があると思われます。

 ハード・ソフト分離論では、現行の放送がデジタル化を機にIP網に乗るかどうか?ということも論点の一つになりました。これにはライツやハッキング上の問題が指摘されましたが、またそれ以上に、「基幹放送」である地上波放送というものが、安定的とは言えないインフラの上に乗っかってしまっていいのか?という本質的な問題も指摘されました。

 その通りだと思います。

■不自然な感覚

 しかし、わたしがハード・ソフト分離論を見て、とにかく不自然に感じるのは、そこで分離論を唱えている側の人間が、放送を「委託放送事業者」「受託放送事業者」「プラットフォーム」の3つに、分けて捉えてしまっている「その感覚」についてでした。

 確かに、現行のCSデジタル放送においては、放送事業者はその3つに別れているかもしれません。しかし、例えば、BSデジタル放送はどうでしょうか?BSデジタル放送局では、「編成」や「営業」こそが、その業務機能の本質であり、上記の3つの分け方では全くそぐわないと思われます。そして、地上波放送。これも基本的には同じなのではないでしょうか?いやむしろ、地上波の場合、編成・営業に加えて「報道」という機能も、見落とすことができない点として指摘できるわけなのです。

 この「感覚の違い」つて、どこからくるのでしょうか?それは恐らく、分離論の手本が単純にアメリカのカタチを手本にしていることにあるのだと思われます。しかし、アメリカと日本の放送のあり方を同じような論理で語ってもいいものなのでしょうか?

 これは現在最も放送のデジタル化が進んでいると言われているイギリスなどのヨーロッパを参考にする際にも、同様に言えることだと思われます。

■ところ変われば、場所変わる~日英の自動車ディーラー比較の場合~

 例えば、放送とはまた別の業種ですが、車を買う場合を想定してみましょう。イギリスの場合、車を買うにしても、日本のように、そこかしこにディーラーがあるわけではありません。もちろん、普段よく通りかかる場所に店舗があれば、問題なくすぐに行くことができますが、その絶対数は日本に比べて少ないと考えられますこでは仮に、ディーラーに行けたとしましょう。そこで仮に車を試乗して、「これをください」とオーダーしたとしても、それが現金購入でなければ、クレジット契約は顧客が自分でどこかの金融機関に出向いて決めてこなければなりません。また、自動車保険加入も同様で、これも自分でどこかで決めてくることが原則で、それらの条件が整った上で、初めて車を購入することができるのです。

 これに対して日本ではどうでしょうか?恐らく日本の場合であれば、ディーラーの方で「一括サービス」として手続きを踏んでくれることになるでしょう。少なくとも、特別な場合を除いて、顧客が自分自身でクレジットや保険の会社を探してくるなんてことはないと思われます。

 こうした差こそが、まさにお国柄の違いであると思われます。イギリスであれば、ユーザーの方が、自分で手続きをしたいというニーズ(その方が割安。内容を自分で吟味できる)があるとも考えられますし、個人主義の国であれば、業種ごとに役割分担が明確になっているとも言えるのでしょう。

■放送の制度見直しにも、文化的背景理解を

 前述した例は、自動車ディーラーの話ですが、こうした日英の違いを考慮すると、「マーケティングツールとしてのデジタル放送双方向サービス(この場合は、自動車のパンフレットが送付される、最寄りディーラーが試乗車を自宅までもってきてくれるなど)」を検討するにしても、サービス内容が、国によって受け入れられるかどうか?ということは、その生活・文化土壌によって、安易に同じように考えることはできないと言えるでしょう。

 そして、これは恐らく「あまねく情報を提供する言論機関としての放送」を考えても、同様のことが言えるのではないでしょうか?つまり、国によって事情は違う。まずはそこをしっかり把握しなければならないと思うのです。そして仮に、表面的なカタチでは似ていたとしても、その一方で、言論や表現などを守る法体制や精神がどの程度充実しているのか?など、よりマクロ的な視点で「放送のあり方全体」を比較検討しなければ、キチンとした議論はできないのではないか?と思うわけなのです。

■過渡期こそ、基本に立ち返る

 放送は、そのデジタル化に際して、これまではある意味「IT技術の進歩」に翻弄されてきたところがあると思います。そしてこれからは「法的規制・緩和」に象徴されるように、「制度論」なども、議点にあがってくるものと思われます。

 しかし、こうした論点提示こそが、実は「放送とは何か?」ということを立ち返って考えることにつながっていくものなのだと思いますも「放送法とはなぜあるのか?」「仮に保護されている点があるとすれば、それは何なのか?なぜなのか?」そうした基本的な確羅が今後は必ず重要になってくると思われます。

 そして同時に、こうしたことの本質的な理解は、海外の仕組みを参考にする時にこそ、非常に機能するものだとわたしは考えています。そうした放送における文化・歴史の違い、今後はそれらが十分に把握された上で、ハード・ソフト分離論についても議論がなされることを望む次第です。

メディアマーケティング局 デジタルメディア部 尾関光司

                             E-mail:v005647@videor.co.jp

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