てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「景山民夫」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第66回
景山民夫という名前を聞いて、まず思い浮かべるのは直木賞作家としての顔だろう。『遠い海から来たCOO』は、ファンタジー的要素がある作品としては異例の第99回直木賞を受賞し、彼の作家としての地位を不動のものとした。
だが、もともとは、テレビの構成作家として、第一線を走っていた。藤原ヒロシやいとうせいこうの才能をいち早く見抜き、フックアップしたように、カルチャーの"目利き"でもあった。
高田文夫は、景山民夫について「まぎれもなく私の<相棒>である」と表現している。
「三〇代の時、極く短い期間ではあったが、マスコミの中で濃密に吠え、遊びまくり、うけまくった相棒である」(※1)
同世代の二人は「民夫君と文夫君」という"コンビ"を結成し、ラジオ番組『とんでもダンディー・民夫くんと文夫くん』(1984~86年、ニッポン放送)を始めとするメディアに一緒に出演したり、ともに立川談志に弟子入りし、立川流に入門したりしていた。ちなみに景山の高座名は「立川八王子」である。
『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)では、見た目が似ているということで三浦和義をパロディにした「フルハム三浦」なるレスラーとして「ひょうきんプロレス」で戦ったりもした。その作家はもちろん、高田文夫だ。 二人は80年代前半に起きた「放送作家ブーム」を牽引した。
景山は、二人での対談で、高田が「みんな敵だもんね。俺と民夫ちゃんだってね」と発言したことに触れて「そのとおりだと思う」と言って、こう綴っている。
「構成で戦いギャグで戦い喋りで戦って"この野郎やるな"と思ったから、まだ友達でいるのだ」(※2)
景山民夫は千代田区生まれ。正真正銘の都会っ子だ。カトリック系の暁星小学校から、名門武蔵中学・高校に進学。そのとき同級生だったのが同じく構成作家となる高平哲郎だ。そして、慶應義塾大学へ入学。
『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)で台本が採用されて、放送作家としての活動をスタートさせた。
高田は放送作家としての景山についてこう評している。
「私は今でも景山の最高傑作は『タモリ倶楽部』内のエッチなドラマ『愛のさざ波』だと思っている。『出没!! おもしろMAP』での『ムキムキマン』の作詞も私は認める」(※1)
どちらも、ハウフルス(当時・フルハウス)の菅原正豊が生み出した番組だ。
実は菅原と景山は大学の先輩・後輩という関係。景山が1年後輩で、同じ「商業美術研究会」に入っていた。最初は奇妙なファッションであらわれた景山に対し「変なヤツが入ってきたな」と思った菅原だが、程なく意気投合。
一緒にカントリー&ウエスタンのバンド「ローファーズ」を結成した。菅原がバンジョーで、景山は背が高いから似合うだろうという理由だけでウッドベースを担当した。だが、楽器を演奏する技術があるわけではない。そのため、自然にフォークソングになり、やがてコミックバンドになっていった。
それでもやはり、景山のギャグセンスは抜群。学生バンドの中では、人気があり、解散するときは、ドンキー・カルテットが「惜しいバンドがなくなった」とパンフレットに祝辞を書いてくれるほどだったという(※3)。
1977年から79年まで放送された『出没!! おもしろMAP』(テレビ朝日)は、菅原が初めて自分で立ち上げた番組だ。だから、すでに『ヤング720』、『クイズダービー』(ともにTBS)などで構成作家として活動していた景山に声をかけたのは自然なことだった。
この番組の当初の企画は「若者」「ファッション」「遊び」の3つの観点から情報を発信する、というもの。オシャレな街をオシャレに紹介する街の情報番組のはしりだ。だが、菅原はオシャレでカッコいいだけでは照れてしまう。だから、景山とともに遊びを入れ、崩していった。その象徴が高田が挙げている「ムキムキマン」だ。
「1日わずか40秒でこの肉体をあなたにも! さあ、苦節13年エンゼル体操で素晴らしい肉体を築き上げた我らがヒーロー! 北極熊を素手で倒し、アフリカ象と腕相撲をするという脅威のムキムキマン!グッチのベルトに身を固め、さあ、エンゼル体操の模範演技の始まりでぇす!」
といった司会の清水國明による前口上で突如あらわれ、上半身裸で胸の筋肉を誇らしげに動かしながら、軽快な音楽に乗せその肉体とは不釣り合いな間が抜けた"体操"を無表情で踊りだす。当初はインストゥルメンタルだったが、レコード化の際に景山民夫による歌詞がつけられ、それをかたせ梨乃が歌った。
このムキムキマンと「エンゼル体操」は、森永製菓のチョコレート「カリンチョ」のCMにも起用され人気を博し、シングルレコードやソフビ人形などの玩具や文房具も発売されるブームとなった。
1982年から始まった『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)にも引き続き景山民夫は構成作家として起用された。中でも彼が脚本を担当した「愛のさざなみ」は、初期『タモリ倶楽部』を語る上で欠かせない人気コーナーだった。
当時話題になっていた若松孝二監督の映画『水のないプール』のヒロインを演じた中村れい子を主演に起用した「男と女のメロドラマ」で、彼女が演じる「波子」とタモリ演じる「義一」が出会うと「波子さん!」「義一さん!」と言い合うメロドラマコメディ。
いちいち武田広による「義一と波子、運命の再会であった」という重厚なナレーションがつくのがバカバカしい。
「今度こそヤレる!」と下心丸出しのタモリだが、毎回何らかの邪魔が入って成就できないという2~3分のミニドラマコントだった。
「『やりたい』みたいな一般的には下品とされる言葉も民夫が書くことによってシャレた甘酸っぱい言葉になりました。民夫が書く台本は、我々の想像をいつも超えて世界を広げてくれました。バカでくだらなくてシャレた世界がそこにはありました。名作でしたね」(※3)
そう菅原は評している。ただし、大きな欠点があった。それは原稿が「遅い」こと。締切に間に合わない。だから、彼の部屋の前にADを張り付かせていたのだが、それをかいくぐって消えてしまっていたことも一度や二度ではなかったという。「おかげで僕も台本を書くようになってしまった」(※3)と菅原は笑う。
そんな景山は80年代半ばから、放送ではない作家のほうに活動の軸を移し始め、前述の通り、1988年『遠い海から来たCOO』で直木賞を受賞するのだ。
『タモリ倶楽部』番組500回記念(1993年2月12日)では、「再び愛のさざなみ」と題してかつての名コーナーが1回限定で復活を果たした。もちろん、脚本を書いたのは、既に番組を離れて久しかった景山民夫だ。これが、菅原と景山との最後の仕事だった。
その約5年後、景山民夫は、自宅が火災になり、50歳で亡くなった。その死に際し、菅原は彼との思い出を綴った一文を寄せている。
「学生時代から一緒に時代と遊んできた彼と番組作りの世界では離れていったけど、民夫から受けた刺激の数々が僕の体の中には沢山残っています。 次々と生まれては消えていくテレビ番組の歴史の裏側に、ある時期景山民夫という人間が存在していたことで、テレビは時代からなめられずにすんだんじゃないかな... ...。そんな気がします」(※4)
(参考文献)
(※1) 高田文夫・著『誰も書けなかった「笑芸論」森繁久彌からビートたけしまで』(講談社)
(※2) 景山民夫・著『極楽TV』(新潮文庫)
(※3) 菅原正豊、戸部田誠(てれびのスキマ)・著『「深夜」の美学 『タモリ倶楽部』『アド街』演出家のモノづくりの流儀』(大和書房)
(※4) 『放送文化』1998年5月号(NHK出版)
<了>