てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「原章」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第67回
「テレビはプロレスから始まった」(※1)
プロレス実況で名を馳せたアナウンサー・徳光和夫はそう語る。 多くの群衆が押し寄せ、小さな街頭テレビの画面を眺めている映像を一度は見たことがあるだろう。その視線の先にあったのが、野球やボクシング、そしてプロレスだった。
1953年2月1日、NHKがテレビ本放送を開始。同年8月28日より、民放テレビ局の日本テレビが放送を開始した。その頃のテレビ受像機は、高額で一般庶民が手に入るものではなかった。そこで日本テレビの正力松太郎が考えたのが、街角に置いたテレビをタダで見てもらおうという発想だった。
中でも人々が熱狂したのが、1954年2月19日、日本で初めてのプロレス中継だった。力道山と木村政彦が組んで、シャープ兄弟と対戦したこの試合は、新橋駅西口広場に設置された街頭テレビに2万人が集まった。 1958年から日本テレビが金曜夜8時に隔週でレギュラー放送を始めるとさらに人気は爆発。
力道山は国民的なスターとなった。
しかし、1963年、力道山は暴漢に刺され死去。
プロレス界は突如スターを失うというまさかの事態になったのだ。力道山に代わり社長に就いた豊登とともに、エースとなったのが、ジャイアント馬場だった。1960年に日本プロレスに入門し、デビュー。翌年にはアメリカへ"武者修行"に行き、現地で「東洋の巨人」として大人気となった。
そんな中で届いた力道山の訃報。日米間での激しい馬場争奪戦が繰り広げられた結果、馬場は凱旋帰国を選んだ。豊登は、ギャンブルでつくった借金により日本プロレスを追放され、いよいよ馬場時代が到来する。一方の豊登は武者修行中だったアントニオ猪木を懐柔し、東京プロレスを設立。
猪木はエースとして活躍するが、東京プロレスは程なく崩壊。猪木は日本プロレスに出戻り、馬場と「BI砲」を組み、日本プロレスは力道山時代と匹敵する盛り上がりを見せていく。
ここで大きな貢献を果たしたのが原章だった。
原章は1961年に日本テレビに入社。スポーツ局に配属され、早くからプロレス中継のディレクターを務めるようになった。彼は「プロ野球中継の父」と呼ばれる後藤達彦に薫陶を受けた。
「スポーツディレクターは最大公約数を考えろ」(※1)
それが後藤の考えだった。つまり、すべての視聴者が見たい映像を放送するということだ。そこにディレクターの自己主張があってはならない。
たとえば、当時、日本人を恐怖に陥れていた外国人レスラーが「鉄の爪」の異名を持つフリッツ・フォン・エリック。必殺「アイアンクロー」を武器にジャイアント馬場と対戦する。その「鉄の爪」が馬場の顔面をわしづかみにする瞬間。それを何としても映さなければならない。
そのため、3台目のカメラをどこに置くか原は思案し、プロレス中継でのタブーを侵すことを決断した。3カメを2カメの正反対となる西側2階客席に置いたのだ。
本来、カメラとカメラが向き合う配置は視聴者の混乱を招く恐れがあるため、1対1の対戦型のスポーツ中継では、絶対にやってはいけないのだという。
「エリックが1カメ、2カメにも背を向けたら、こちらとしてはお手上げでアイアンクローは撮れなくなります。考えた末の結論がもう1台を逆方向に置くことだったんです。鉄の爪を撮るにはこれ以外になかった」(※1)
すべては視聴者がもっとも見たい映像を撮るためだった。そのためにはそれまでの常識を打破する必要があったのだ。そうして迫力のあるプロレス中継を実現し、視聴者を釘付けにした。
また、猪木の代名詞のひとつである「卍固め」の"名付け親"も原だった。原が道場へ取材に行くと猪木が新技の練習をしていた。フィニッシュホールドとして面白いと直感した原は猪木に番組内で視聴者に技の名前を募集することを提案したのだ。1968年に初披露されると、反響は凄まじく、その中に「卍固め」があったのだ。
そんな中、1969年、NET(現・テレビ朝日)で日本プロレスを中継する『ワールドプロレスリング』が始まる。日本プロレスの幹部・芳の里らを口説いて実現したものだ。芳の里は、中継料が2倍になるという思惑だったが、もともと中継していた日本テレビが面白く思うはずはない。
NETにはジャイアント馬場は出さないという配慮がされ、結果、日本テレビの中継のエースはジャイアント馬場、NET中継のエースはアントニオ猪木という形ができあがることになった。やがて、日本プロレス内でも馬場派・猪木派ができ、猪木はクーデターの汚名を着せられ、事実上追放された。
これを機にNETにもジャイアント馬場の試合が中継されるようになると、日本テレビは約束が違うと激怒する。
ここでも大きな役割を果たしたのが原章だった。
馬場自身、NETに出ることは不満を持っていた。金に目がくらんだ幹部たちが勝手に決めたことだった。原は、馬場からそんな心情と、日本プロレス内部の動きを逐一報告を受けていた。日本テレビも馬場も、もはや日本プロレスとの信頼関係は崩壊していた。
「プロレスは正力さんの遺産である。だから続けなければいかん」(※1)
日本テレビの当時の社長・小林與三次は大号令を出した。とはいえ、日本プロレスとは袂を分かつしかない。ならば、ジャイアント馬場を引き抜いて新団体をつくる道以外にはない。原は"暗躍"し、馬場独立を阻む法的な諸問題などを解決していった。
また、原は馬場と連れ立って力道山の未亡人の百田敬子に会いに行った。原と敬子は、同じ横浜市の出身で子供の頃からの顔見知りだった。もちろん、旧交を温めるだけが目的ではない。
「あの、チャンピオンベルト、お宅にあるのかなと思って」(※3)
プロレスの団体にとってチャンピオンベルトが必要だ。しかも、ただ作ればいいというものではない。そこには"権威"が不可欠だ。
馬場は、日本プロレスでインターナショナルヘビー級王座とインターナショナルタッグ王座を保持していた。馬場もそれを持って独立しようとしていたが、日本プロレス側は当然それを阻止しようとリアルファイトに強い大木金太郎を挑戦者として立てようとした。
独立前に負けるわけにはいかない馬場は、やむなくベルトを返上したのだ。そこで原が代わりに目をつけたのが力道山のベルトだった。
「条件は何でしょう?」敬子は二人に尋ねた。
「奥さんに、全日本プロレスの役員になってほしいんです」(※3)
原と馬場が欲しかったのは力道山のベルトだけではなかった。力道山=「百田家」の威光そのものだったのだ。実はその少し前、日本プロレスを追放された猪木は、新日本プロレスを立ち上げていた。だから、日本テレビは、日本プロレスから新日本プロレスに乗り換えるという選択肢もなかったわけではない。
何しろ、原は「卍固め」を命名するなど猪木を買っていた。本人からのアプローチもあったという。けれど、小林の考えは違った。「力道山を受け継ぐ保守本流」でなければならないと考えたのだ。だからこそ、原は百田家に協力を仰いだのだ。
そうして事実上、テレビ局が主導して生まれたプロレス団体「全日本プロレス」が設立されたのだ。
「新しい団体を作りたいと馬場さんも腹の底で思っていた。日テレも新団体を作って、馬場さんを支援したかった。もちろん、馬場さんも支援されたい──そういう両者の思いが一致したということです」(※1)
全日本プロレスは、1972年10月22日、両国日大講堂で旗揚げ戦を開催。それに先立ち、日本テレビは10月7日から『全日本プロレス中継』を開始。もちろん、それを指揮したのは原だ。
馬場の海外遠征の模様から始まり、21日の旗揚げ前夜祭を生中継。以降、旗揚げ戦から余す所なく全日本プロレスを支援しつつ追ったのだ。対するテレ朝の『ワールドプロレス』は新日本プロレスに切り替え放送。
両局が切磋琢磨する形でプロレス文化を盛り上げ、テレビの歴史もつくっていったのだ。
(参考文献)
(※1) 福留崇広・著『テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち』
(イースト・プレス)
(※2) 日本テレビ放送網株式会社『テレビ夢50年 日本テレビ50年史』
(※3) 細田昌志・著『力道山未亡人』(小学館)
<了>