てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「ジェームス三木」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第68回
今年6月14日、脚本家のジェームス三木が亡くなった。その訃報の多くに「ドラマのような人生だった」という言葉が添えられていた。 まさにジェームス三木は、日本の戦後から現代に至る約70年以上にわたるエンターテインメント業界の変遷と重なるような激動の生涯だった。
旧満州の奉天(現・中国瀋陽)で生まれたジェームス三木は、11歳の時に終戦を迎え、大阪へ引き揚げた。このとき、中国の人々からは、「負け犬」「鬼」と罵倒されたという。
中学時代に演劇に目覚め、文化祭での演技で喜びを感じ、人を笑わせることが好きだった。この頃、教師にいわれて書いた脚本が郡の演劇コンクールに入賞。高校でも演劇に熱中した。高校2年の時には、演出と主演を兼ねた芝居が、大阪府の高校演劇コンクールで高い評価を得る。
「あれほど喜んだのは、生涯でいまだありません」と彼は振り返る(※1)。「素質があるに違いない」、と本気で思った。ただし、このとき夢見たのは、脚本家でも、歌手でもなく、俳優だった。
高校3年生のとき、劇団俳優座養成所の試験を受けると合格したため高校を中退。ほとんど無一文で上京した。先輩には山岡久乃、宇津井健、仲代達矢、佐藤慶、同期には平幹二朗らがいた。
しかし、大阪弁のアクセントが抜けず苦労し、学費や生活費の工面のためアルバイトに追われる日々で出席日数が足りず、仲代達矢や平幹二朗らの才能にも圧倒され、2年で退所する挫折を味わった。
俳優として芽が出なかった彼は、1955年、テイチクレコードの新人コンクールを受け、200倍の倍率を勝ち抜きデビュー。フランク永井の対抗馬として「ジェームス三木」の名が与えられた。
ちなみに名付け親はディック・ミネ。名前をつけてほしいと頼んだら「俺はそれどころじゃない。今から税務署に行くんだ」と言われ「税務署に行く」を文字って「ジェームス三木」になったという逸話もある(※2)。だが、これもうまくいかなかった。
30歳になり歌手として限界を感じた彼は、同人誌に小説『装飾音符』を書いた。この作品が『新潮』が全国の同人雑誌から選んだ10篇に選ばれ掲載される。それをきっかけに、「シナリオ作家養成教室」に通い始めた。
1967年、初めて書いたシナリオ『アダムの星』が『月刊シナリオ』コンクールで事実上の1位に入選。この作品が映画監督の野村芳太郎の目に留まり、ナイトクラブ歌手と兼業しながら野村に師事することとなった。野村からは「シナリオは数学だ」と教えられ、物語のリズムや構成の重要性を学んだという。
1969年、34歳の時に映画『夕月』で脚本家として正式にデビュー。初めて書いたテレビドラマの台本に「ジュース三本」と名前を誤植されることもあった。ちなみに、脚本家になる前の歌手生活の経験も役に立った。セリフを書く際の言語感覚が研ぎ澄まされたからだ。
たとえば、ラブシーンでは、「な行」「ま行」を多くする。「な行」「ま行」が多いと、歌は色っぽく聞こえることを実感していたのだ。逆に警官ものだと、「た行」や「か行」を多くするようにしていたという(※3)。
彼の創作活動に大きな影響を与えたのが、1983年に経験した脳腫瘍。48歳で大手術をおこなった。「死を覚悟しました。病院のベッドで、自分の葬式の脚本を考えるほど」(※4)だった。
病室の隣のベッドにも、重い脳腫瘍の患者がいた。その患者は手術の前日、テレビでプロ野球の巨人・阪神戦を一生懸命に見ていた。彼は亡くなってしまうが、「人は最後かもしれない時でも楽しんでいる、人間は単純なものではないんだ」(※4)と感じ、のちの脚本づくりにつながったという。
この病気で倒れる少し前に、NHKの朝の連続テレビ小説のオファーがあった。いよいよ朝ドラかと思うと、武者震いがした。入念に執筆の準備を進めていた矢先の病魔だった。それでも、なんとか生還し、体調の不安はありつつも、「書きあげるまでは死ねないという思い」(※5)で書き上げた。
それが、大ヒットする沢口靖子主演の『澪つくし』(1985年)だった。
「いまどき、純愛なんて」という風潮だったが、人生で初めて生死の境をさまよう経験をしたから、自分がいちばん書きたい物語を書こうと思った。それが「純愛」だった。「人を愛することの美しさ、そして、震えるような切なさこそ、人間の永遠のテーマ」(※6)だと確信したのだ。
1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』も高視聴率を叩き出し、ジェームス三木の名声は不動のものとなったはずだったが、彼にスキャンダルが襲う。長年連れ添った元妻による暴露本でスキャンダルが発覚。仕事は激減する。
それを救ってくれたのは、当時、NHKの会長だった川口幹夫だった。大河ドラマ『八代将軍吉宗』の脚本の起用に際し、反対する声もあがったが「家庭のことだから問題はない」とかばってくれたのだ。その恩に報いるため執筆に尽力し、直前の3作が低迷気味だった大河ドラマの視聴率をV字回復させたのだ。
ジェームス三木の脚本哲学の根幹にあるのは「ドラマとはトラブルである」という考え方(※7)。その激動の人生を象徴するかのようだ。「変化」「対立」「葛藤」をドラマの本質と捉え、「食欲、性欲、そして掟」という人間の行動原理の三角形を基盤とした独自の脚本哲学を確立した(※8)。
そして、ドラマとは「人間を描くこと」だと語る。
「実は欠点は魅力なんですよ。むしろ欠点がないと、人は魅力に感じないんです。欠点をどうエンジョイするか。それこそ実は人間には問われるんですね」(※7)
人間は欠点こそが魅力。そして人は劣等感を必ず持っている。そこから欲望が生まれる。「妬みや恨み、劣等感や欲望、そういう人間臭いところこそが大事。ドラマは、そういうところにこそ潜んでいるし、それを多くの人に知ってほしい」(※7)とジェームス三木は主張していた。
そのまなざしに通底するのは、あふれる人間愛だった。ジェームス三木は、91歳で亡くなるまで現役の脚本家として創作意欲を燃やし続け、その波乱に満ちた人生すべてが、彼の作品と哲学に結実していた。
(参考文献)
(※1) 「朝日新聞」2014年6月10日
(※2) 「朝日新聞」2014年6月11日
(※3) 「ダイヤモンド・オンライン」2011年9月29日
(※4) 「朝日新聞」2014年6月12日
(※5) 『週刊朝日』2018年11月9日号(朝日新聞出版)
(※6) 『週刊現代』2019年11月23・30日号(講談社)
(※7) 「ダイヤモンド・オンライン」2011年9月28日
(※8) 「シナリオ教室オンライン」2018年10月20日
<了>