てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「末盛憲彦」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「末盛憲彦」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第69回



「なんて豊かなんだと思って。いま、テレビの中で、ダンスだけを5分ぐらい見るってないでしょ? なかなかないんだけど、このころはこれを、家の中でとか、いろんな家庭だったり職場だったりで、みんなでみて楽しんでたっていうなんかその様が、すごい豊かだなと思って」

『夢であいましょう』(NHK)の「上を向いて歩こう特集」(1963年6月8日放送)のアーカイブ映像を見たという星野源は、その中でダンスだけが5分近く続くシーンを見てなんだか泣いてしまったと明かした上でそう語った(※1)。

『夢であいましょう』は、土曜夜10時台の枠で、1961年に始まった音楽バラエティ。演出を務めたのは末盛憲彦。「大衆にミュージカルを楽しんでもらう」という発想で「目で楽しめる音楽」を目指した。毎回ひとつのテーマを設定し、それにまつわる歌やコント、トークなどをしていく生放送だ。

実は星野源が見たという映像は、NHKに残っていたものではない。放送されたVTRは、NHKが社屋を移転した際に捨ててしまっていた。

だが、毎週の反省会では、リハーサル前に前週の放送素材をスタッフや出演者と一緒に視聴するのが恒例となっていた。そのために撮っておいたキネコ(テレビ画面をフィルムで記録する方法)数本を、末盛が個人的に保管していたものが、彼の死後に発見されたのだ。

末盛憲彦は、慶應義塾大学を卒業後、一度はカネボウの経理部門に就職した。しかし、学生時代はハリウッドのミュージカル映画に熱中しており、彼は自身の真にやりたいことが音楽やショービジネスに関わる仕事であることに気づき、NHKへの転職を決意する。

1956年にNHKに臨時職員として美術進行の仕事で入局した末盛は、スタジオでの視覚的な要素の調達や、セットデザイナーの設計後の小道具、衣装の手配などを担当した。その熱心な仕事ぶりですぐに芸能局の制作現場へと異動することができた。

そして1961年、彼の代表作である『夢であいましょう』が始まった。

構成作家には、『光子の窓』(日本テレビ)の井原高忠のもとでバラエティショーのいろはを学んだ永六輔、音楽監督に中村八大という最高のコンビを迎え、日本の粋な文化に都会的なジャズやポピュラー音楽、最新のダンスを融合させることを目指した。曲ごとにセットを変えたのは、末盛の発想だった。

美術部チーフディレクターだった星野昭はこう証言している。

「番組の起承転結に合わせて、音楽もセットも決める。それがショーの本質だよ。四十年代あたりから、ヒット曲を脈絡なく並べるだけの音楽番組が増えたが、『夢あい』はそういう態度を貫いた。倍は神経を使ったね。時代の最先端という意識があったから不満なかったけど、つらくて逃げたデザイナーも多かったんじゃないか」(※2)

この番組の名を高めたのは、なんといっても「今月の歌」のコーナーだ。毎月、主にいわゆる「六・八コンビ」(永六輔・作詞、中村八大・作曲)による書き下ろしの新曲を発表した。

そこから坂本九の「上を向いて歩こう」、ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」など、のちに日本のスタンダードナンバーとなる大ヒット曲が生まれていった。

その中で有名なエピソードがある。「こんにちは赤ちゃん」は八大に子供が産まれたときに「はじめまして、父親です」と言ったことから生まれた曲だった。だから最初は「パパ」だったが、それを「ママ」に変えるようにお願いしたのが末盛だった。

永六輔は最後まで反対したが、「ママ」と変えて梓みちよが歌ったことで大きなヒットとなったのだ。

司会にファッション・デザイナーの中島弘子を起用。中島が首を右に曲げてあいさつするなど素人っぽさが受けた。レギュラー陣には黒柳徹子を筆頭に、渥美清、坂本九、三木のり平、E・H・エリック、岡田眞澄らが名を連ねた。もちろん渥美清は『男はつらいよ』で寅さんを演じるはるか前だ。

末盛は、無名の新人を大胆に起用する慧眼も持ち合わせていた。当時まだ無名だったジャニーズの4人を「踊る少年たち」として1962年にテレビ初出演させたのも彼。「今月の歌」の田辺靖雄による「いつもの小道で」のとき、バックダンサーが必要だと感じ起用したのだ。

しかし翌週、リハーサル前の反省会でキネコを見た出演者が「なあにこれ、なんて下手なの」と笑った。それを見た末盛は、徹夜で特訓した。すると、少し改善した。だが、末盛はそれでは満足しない。1ヶ月、特訓を重ね、その頃には、ジャニーズはすっかり人気者になり、レギュラーとなったという(※3)

「僕は寝ダメ、食いダメが出来るんだ」(※4)

それが末盛憲彦の口癖だった。昼でも夜中でも納得するまで打ち合わせをした上で、本番に臨む完璧主義者。チーフプロデューサーだった川口幹夫は、「末盛君と星野君が夕方、打ち合わせを始めるのを横目に帰宅する。翌朝、出社したら、まだ同じ姿勢で話し合っていた」光景が忘れられないという(※2)。

『夢であいましょう』終了後も、末盛はNHKの音楽番組の新たな分野を開拓し続けた。1970年にはNHK初の若者向け音楽番組『ステージ101』をスタートさせ、さらに、永六輔と再びタッグを組み、当時テレビでは異端と見られていたタモリをレギュラー出演に抜擢した『ばらえてい「テレビファソラシド」』も手がけた。

当時、長髪の男性すら出演を巡って賛否が起こったNHK。まだキワモノのアングラ芸人のイメージが強い、サングラス姿のタモリの出演には反対意見が噴出した。

しかし、ここでタモリの器用にこだわり、説得に奔走したのが末盛憲彦だった。

最終的に、女性アナウンサーの "お目付け役" をつけるという条件で出演が認められ、結果、タモリ・加賀美幸子の名コンビが生まれたのだ。そもそも、女性アナウンサーがアシスタントではなく司会を務めたのも初めて。革新的なことだった。

タモリはこの番組で、インテリジェンスのイメージも得て、この番組終了の約半年後、『笑っていいとも!』(フジテレビ)の司会に抜擢されるのだ。

常に新しい試みに挑戦し、テレビの常識を打ち破っていった末盛。しかし、1983年8月10日、54歳の若さで急逝した。死因は冠状動脈硬化症。『この人・武原はんショー』の演出を行った翌日のことであった。その頃も、仕事に熱中し、過酷な日々を送っていた。

「秘密の箱。大事にしまっておきたくて、あまりみんなに見せたくない番組。言ってみれば青春みたいなもの」(※4)

黒柳徹子は、『夢であいましょう』をそう表現している。それだけ宝物のような思い出なのだろう。当時は映画や芝居の方が上で、テレビは一段低いもの、と見られていた時代。「それでもテレビの力を信じる人たちが、あらんかぎりの情熱を投入した」と黒柳は言う。その筆頭のひとりが末盛憲彦だったのだ。

(参考文献)

(※1) 『おげんさんといっしょ』2020年11月3日

(※2) 「読売新聞」1992年12月1日

(※3) 「TAP the BOOK」2019年7月12日

(※4) 「中日新聞」2007.10.31

<了>