てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「正力松太郎」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「正力松太郎」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第70回



1953(昭和28)年8月18日、日比谷公会堂には大勢の見物客が詰めかけた。日本で初めて「街頭テレビ塔」が設置されたのだ。 この街頭テレビを発案したのが、日本テレビの創始者であり、「テレビ放送の父」などと呼ばれる正力松太郎である。

日本のテレビ放送は1953年2月1日にNHKで始まり、その時点での契約件数はわずか866件にとどまっていた。日本テレビが開局したのは、その約半年後の同年8月28日。

しかし、その頃になっても関東地区のテレビ受信機はわずか2700台程度。大卒初任給が1万円弱の時代、テレビは20万円近い高級品で、庶民には到底手が届かなかった。

そこで登場したのが「街頭テレビ」だ。 「テレビで問題なのは台数ではなく視聴者数だ」

アメリカ人技術者ホルステッドの言葉をヒントに正力は着想を得た(※1)。1台のテレビを1000人で同時に視聴すれば、それは1000台分の広告効果を生む。この革新的な発想は、広告収入で運営するビジネスモデルを構想していた正力にとって、必然の帰結だった。

「テレビの広告効果はラジオの11倍」(※2)

正力はそう宣言し、スポンサー獲得に奔走した。その結果、日本テレビはテレビが普及していない時代から黒字を計上する。一方、受信料収入に依存していたNHKは視聴契約者数が伸び悩み、当初苦境に立たされた。

ただし、初めて街頭テレビが設置された8月18日の時点では、まだ日本テレビの放送は始まっていない。従って、初めて街頭テレビが流れたのは、ライバル局であるNHKによる夏の甲子園、高校野球中継――のはずだった。だが、流れたのは音声のみ。NHK側の送電故障のため、画像が映ることはなかったのだ。

「これはNHKの故障で、当テレビの故障ではありません!」(※2)

つめかけた見物客にそう弁明するしかなかった。日本テレビ開局前に街頭テレビが設置されたのは、55箇所。最終的に278箇所に設置され、多くの国民がテレビに釘付けになったのだ。

そもそもなぜ、正力松太郎がテレビ局をつくるに至ったのか。

彼は高等文官試験に合格したエリート警察官僚だったが、「虎ノ門事件」を防げなかった責任を問われ、懲戒免官となる。

その後、後藤新平の支援を受けて経営不振に陥っていた読売新聞を買収し、見事に再建して「読売中興の祖」と呼ばれるようになった。しかし戦後、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され、公職追放処分を科される。

この頃、日本のメディアはGHQの統制下に置かれていた。アメリカではテレビが国際的な情報戦に欠かせない道具とみなされ始めており、米国政府は日本を民主主義陣営へ導くための宣伝手段としてテレビの導入に関心を寄せていた。正力のテレビ事業参入は、こうした国内外の思惑が交錯するなかで具体化していったのである。

ここで重要な役割を果たしたのが、元読売新聞記者で当時NHKラジオのニュース解説をしていた柴田秀利だ。アメリカ上院議員カール・ムントが、日本の情報網をアメリカに握らせようとする「ビジョン・オブ・アメリカ」構想を掲げていることを知り、柴田は衝撃を受けた。

彼はムントに面会し、「日本人の手でテレビ網を築く」と啖呵を切ったという。資金調達の方法を問い詰めたムントに柴田は思わずこう答えた。

「公職追放中の正力を解放してくれたら、日本円で数億――つまり5百万ドル分の資金を集めてごらんにいれよう」(※2)

こうして、アメリカが求める「デモクラシーの宣伝と反共宣伝」を引き受ける形で、日本全国にテレビ放送ネットワークを形成する「日本テレビ放送網設立構想」(通称「正力構想」)が練られたのだ。社名「日本テレビ放送網」に「網」がついている所以である。

正力とともにテレビ局をつくるとNHKに辞表を出した柴田に対し、当時テレビに対して冷淡だったNHKは「そんな夢、2日で醒める悪酔いみたいなものだ」と一笑に付したという(※2)。実際、「正力構想」が発表された51年、NHKの副会長・小松繁は「テレビはまだ当分先」と明言している(※1)。

しかし、正力率いる日本テレビが戦後復興の象徴として一刻も早い開局をめざし具体的に動き出すと、NHKの態度は急変する。もちろん、NHKは昭和初期からテレビに対する技術研究をしてきた。突如あらわれた民間の会社に先を越されるわけにはいかなかったのだ。

「テレビジョンは公共放送で! 売国テレビは絶対お断り!」 そんな過激なスローガンを掲げたポスターが制作され、民間に任せれば、低俗で悪質な放送になってしまう――という強い印象操作がおこなわれたのだ。

NHKは「アメリカ式の商業放送は、日本では経営が成り立たないばかりか、広告主至上主義が番組の卑俗化や質の低下、都市部偏重をもたらす。公共放送のみが、良質な番組を全国に不公平なく送ることができる」と主張した(※1)。

対して、正力松太郎は、「テレビは大衆のもの」と繰り返し訴えた。 「日本テレビ発足に当って―全国普及への道―」というパンフレットは、正力松太郎のこんな言葉で始まっているという。

「テレビジョンは大衆のものであります。ラジオがそうであり、又新聞がそうであるように。(略)テレビジョンが大衆のものだという意味は、一部の富裕者だけのものにしてはならぬということであり、同時にその恩恵を大都市だけでなく、 全国の隅々までも普及させねばならぬということであります」(※1)

その結果、1952年7月31日におこなわれた電波監理委員会で、テレビの予備免許を初めて交付されたのは、日本テレビだったのだ。 第一号免許が民間企業の日本テレビに交付されたことが、のちにテレビが大衆文化の担い手となっていくことを象徴している。

もちろん、広告効果を示すためにおこなわれた街頭テレビであるが、それだけではなく「テレビは大衆のもの」という正力松太郎の信念の具現化だったに違いない。

(参考文献)

(※1) 日本テレビ50年史編集室:編『テレビ夢50年』(日本テレビ放送網株式会社)

(※2) 荒俣宏・著『TV博物誌』(小学館)

<了>