てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「青島幸男」篇

  • 公開日:
テレビ
#てれびのスキマ #テレビ
てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「青島幸男」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第71回



いまや吉本芸人、ひいてはお笑い芸人の"アンセム"のように様々な場面で歌われる「明日があるさ」。もともとは坂本九が歌いヒットした曲だ。 歌詞を書いたのは、言わずとしれた青島幸男。この曲が生まれた経緯について、青島は次のように振り返っている。

「『スーダラ節』を書いた後だったね。『夢を育てよう』というバラエティー番組があって、出演者は坂本九ちゃんや小林幸子さん。私はコントを書いたりしてた。

その主題歌を中村八大さんにお願いした。すると、主題歌の人気が出てさ、番組名を『明日があるさ』に変えた。八大さんの作曲の力に負うところが大きいんだけど、あの<明日があるさ>の繰り返し、半音ずつ上がっていくでしょ。いいんだよね、印象的で」(※1)

この言葉にあるように「スーダラ節」を始めとするクレージーキャッツのいわゆる"無責任ソング"の作詞も手掛けた。また、クレージーキャッツ出演番組等のコントを書いていたのも青島。

「現在の植木等があるのは、青島幸男さんのおかげ」(植木等)、「青島さんなしではクレージーキャッツはありえなかった」(谷啓)とメンバーも評している(※2)。果ては、その番組に演者としても出演。

それを皮切りにテレビタレントとしても活動。先ごろ、梅沢富美男がドラマ『浅草ラスボスおばあちゃん』(東海テレビ)で主役の「おばあちゃん」役を演じて話題になったが、男性による「おばあちゃん」役といえば青島幸男。そんな『意地悪ばあさん』(フジテレビ)を筆頭に俳優としても活躍した。

映画を撮れば、カンヌ国際映画祭の批評家週間で入選し、小説を書けば直木賞を受賞。そして人気絶頂の時に、議員へ転身。タレント議員の先駆けとなった。マルチな活動をする人は少なくないが、ここまで各ジャンルで天才性を発揮した人物はなかなかいないだろう。

早稲田大学に在学中、結核の療養生活を送っていた時期に自宅でできる仕事を探し、NHKの漫才台本コンクールに投稿したことが、彼のキャリアのスタートだった。リーガル千太・万吉の座付き作家も頼まれるようになった。

そんな青島に一本の電話がかかってくる。声の主は府立二十一中で同級生だった椙山浩一だった。のちに「すぎやまこういち」として『ドラゴンクエスト』などの作曲で知られることになるが、当時は開局したばかりのフジテレビに入社し、ディレクターをしていた。

中学時代から青島は「10円玉をネジで教壇に固定して教師をからかったり、いたずらの天才だった。落語も一級品」だったとすぎやまは言う(※3)。

そんな「いたずらの天才」にすぎやまが依頼したのが、クレージーキャッツが出演していたお昼の生放送番組『おとなの漫画』(フジテレビ)の台本だった。この番組の大きな特徴は、その日のニュースを風刺したコントを生放送で行っていたということ。

だから、当然ネタをストックすることはできず、ニュースが出てからの数時間で書かなければならない。作家にとってかなりハードな仕事だ。

その舞台裏を青島は生々しくこう回想している。

「当日の朝刊から時事ネタを拾い、ようやく書き上げた原稿をフジテレビに持っていく。もちろんファクシミリなんてものもない。その上、コピー機がないのだ。私が局に到着するのを、クレージーキャッツのメンバーが正面玄関の長いすに座って待っている。

原稿を渡すと、メンバーが横一列になって一枚読んでは隣に送り、また一枚読んでは隣に送る。途中で三枚目はどこ行った? 五枚目貸してくれ! などと大騒ぎになる。即座に設定とセリフをたたき込み、立ち稽古、ランスルー、カメリハという流れになり、最後のリハーサルが終わるのが本番十分前」(※4)

そんな制作現場だから生放送のハプニングはつきもの。出演者のひとりがハマってしまって噴き出すと、それが他のメンバーにも伝染して、止まらなくなったまま番組が終了してしまったり、時間が余ってしまった結果、アドリブでセリフを足した結果、本来のオチと真逆のものになってしまったり――。

この放送によりクレージーキャッツがテレビで人気者になっていく。と同時に、毎回冒頭、画面に大きく表示される「作・青島幸男」というボードにより、青島も注目されるようになった。

そして1961年にザ・ピーナッツとクレージーキャッツによる『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)が始まる。当初は前田武彦がメイン作家を務めていたが、約1年で降板。それを引き継いだのが青島だった。

メインのディレクターは番組を立ち上げた秋元近史と、「ギニョ」こと齋藤太朗だ。特に後者は、そのしつこさから「コイシツのギニョ」などと呼ばれ恐れられた。

青島も何度となく「もうひと工夫」と言われ台本を返された。ついには「お前はこの会社の人間だけど、俺は違うんだから。『シャボン』だけで飯食ってるわけじゃないから、後はお前が考えろ」とさじを投げたこともあった。

だが、齋藤は何食わぬ顔で「それで結局、どうなったの、青ちゃん」と言ってくるのだ。「勘弁してくれ」と言っても「勘弁できない」と譲らない。

『シャボン玉ホリデー』は放送の2週間前に台本ができ、1週間前にはセットのプランを完成させ、音楽のアレンジをして、本番に向けた稽古をしていく。 「みんながこうやって、やってるんだから。面白くなるかならないかは、青ちゃんの筆先にかかってんだから」(※5)

そうして日本のテレビ史を代表する人気番組となっていったのだ。植木等の「お呼びでない」、谷啓の「ガチョーン」など、この番組で生まれたギャグは数多い。

その中のひとつが「青島だァー」だ。突如、裏方である放送作家が出てきて「青島だァー」と偉そうに振る舞う姿が視聴者の心を掴み流行語となった。と同時に、青島は「出る側」としても人気者になっていったのだ。

そして「作詞家」青島幸男が生み出したのが「スーダラ節」だ。

「ミュージカル番組だからオジナルソングが欲しいというので出来たのが植木等さんの『スーダラ節』。 植木さんはお寺の出身で酒も飲まない几帳面な紳士なんだけど、ろくでなしみたいな役をやると非常に当たる。それで私がそんな役ばかり振って書いたもんだから、いつのまにか植木さんは『日本一の無責任男』になってしまったんだよね」(※6)

植木の「無責任男」のキャラクターは一連のクレージー映画にもなり大ヒットしていった。

井上ひさしは次のように評している。

「日本が経済成長に差し掛かる時代に『無責任』という言葉で日本人の本質をずばり見抜き、それをテレビや映画、歌といった町内の人々に届く声で表現したのは、時代の先取りだった」(※7)

同級生のすぎやまに言わせると「ちゃらんぽらんとまじめが同居した性格」だったという青島。彼はまじめに、軽やかに権威や時代をおちょくっていた。「努力しても無理矢理にでも軽く生きなくちゃいけない」(※8)と。

東京都知事に就任していた頃、その知事室には壁に山の絵が掛けられていたという(※9)。そこには墨で彼が作詞した「ホンダラ行進曲」の一節が添えられていた。

「一つ山越しゃ ホンダラダホイホイ もう一つ越しても ホンダラダホイホイ」

(参考文献)

(※1) 「毎日新聞」2001.04.18

(※2) 「スポーツニッポン」2006.12.21

(※3) 「読売新聞」2006.12.21

(※4) 「朝日新聞」2000.05.02

(※5) 齋藤太朗・著『ディレクターにズームイン!! おもいッきりカリキュラ仮装でゲバゲバ...なんでそうなるシャボン玉』(日本テレビ放送網)

(※6) 日本テレビ50年史編集室:編『テレビ夢50年(2)』(日本テレビ放送網株式会社)

(※7) 「朝日新聞」2006.12.21

(※8) 青島幸男・著『ちょっとまった! 青島だァ』(岩波書店)

(※9) 高田文夫・著『誰も書けなかった「笑芸論」』(講談社)

<了>