てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「疋田拓」篇
てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第72回
「ミスター夜ヒット」などと評された疋田拓が、今年10月16日に急死した(享年83)。亡くなる前日の15日も、演出・構成を務める『人生、歌がある』(BS朝日)の打ち合わせをしていたという。
文字通り、生涯テレビマンとして人生を全うしたのだ。通夜には、森進一、吉幾三、郷ひろみ、由紀さおり、瀬川瑛子、山川豊、城之内早苗、錦野旦といった歌手を始めとして音楽関係者が多数参列した。
疋田は、日本大学芸術学部放送学科に8年在籍。1968年にフジテレビに入社した。同年11月、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)が始まると、立ち上げからADとして参加し、やがてディレクターに昇格。その後、プロデューサーも務めた。つまりは、疋田はこの番組とともに育ったと言っても過言ではない。
『夜のヒットスタジオ』は、テレビ史に残る名音楽番組だが、当初は急遽始まった、いわば"穴埋め"番組だった。もともとこの番組が放送された月曜22時は、ドラマ枠。イギリスのテレビ映画『電撃スパイ作戦』を放送していた。
だが、これが不評で、営業サイドから打ち切りの話が持ち上がった。けれど、急にドラマはつくれない。そのため、当時、編成次長だった太田良康は、生放送の歌番組ならなんとかなるだろうと企画した(※1)。
ワイドショー番組『小川宏ショー』のスタッフであった伊藤昭をプロデューサーに据え、ディレクターには、藤森吉之を起用。構成には塚田茂。その塚田が構成を務めていた『お昼のゴールデンショー』の司会として人気だった前田武彦と『小川宏ショー』のホステス役を務めていた芳村真理が司会に抜擢された。
いずれも、いわゆる"音楽畑"ではない。だからこそ、お花畑の階段から、歌手が次の出演歌手の持ち歌をワンフレーズ歌いながら登場するという、タブーともいえる革新的なオープニングが生まれたのだろう。疋田はこう振り返っている。
「当時の芸能界は、ほかの歌手の持ち歌を歌うのはご法度だったため、これを理由に出演を断る歌手が少なからずいました。でも、アイドルが演歌を歌い、演歌歌手がロックを歌うなど、意外性のあるリレーが注目されたのです」(※2)
他にも「コンピューター恋人選び」や「歌謡ドラマ」といった音楽番組という常識からは逸脱したバラエティに富んだ企画を数多くおこなっていった。
それでも、核となる音楽を見せるという部分は決して外さなかった。『夜ヒット』が歌手たちから支持を得た最大の理由は、「生バンドによる演奏で、フルコーラスを歌う」という原則があったからだ。
「番組の都合で歌をカットするのではなく、フルコーラスできちんと聴かせることが重要です。セットも照明もカメラワークも、歌と歌手をよりよく見せるためのもの。そのために全力を尽くすというスタッフの心意気が、歌手にも視聴者にも伝わっていたように思います」(※2)と疋田は胸を張る。 特に疋田は画作りのうまさにおいて定評があった。
「懐かしの映像」などの企画で何度となく流される、沢田研二が50枚の畳が敷き詰められたスタジオで「サムライ」を歌う有名なシーンのアイデアも疋田によるものだ。
沢田本人は当初「西洋的な『サムライ』の歌なのになんで畳なんか......」と嫌がっていたが、「嫌だったら外すからとにかく一度見てくれ」と説得して実現したのだ(※3)。
ドライアイスのスモークや豪華セット、斬新なカメラワーク、スイッチングなど数々の演出を"発明"し、阿久悠からは「オレの歌を見事に映像で表現してくれた」と激賞されたという(※4)。
フジテレビの中にあって疋田組はとかく厳しいことで有名だったという。
『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』や『LOVE LOVE あいしてる』、『僕らの音楽』といった革新的な音楽番組を生み出したきくち伸も疋田拓の薫陶を受けたひとりだ。
1985年にフジテレビに入社したきくちは、研修を終えると『オレたちひょうきん族』か『夜のヒットスタジオ』への配属を希望した。まだ、疋田組が激務であることを知らなかったのだ。
『夜ヒット』への配属が決まり喜んでいると、編成部の人たちに「疋田組かぁ・・・お前大丈夫か?」と心配された。事実、挨拶へ行ったその日から10日間、家に帰れなかったという(※5)。
当時の疋田組の方針は「全部の仕事を全員で」。この頃、『夜ヒット』や『FNS歌謡祭』といった音楽番組はもちろん、そこから派生した『スターどっきり㊙報告』、『オールスター紅白水泳大会』なども担当していた。
だから、月曜日は『どっきり』のロケハン、火曜日が『どっきり』のロケで泊まり込み。水曜日は『夜ヒット』の本番、『夜ヒット』が終わったあとに反省会などを終えると、そのまま大磯ロングビーチに行き『水泳大会』のスタンバイ......といった過酷なスケジュールだった。
そうした中、きくちは、『夜ヒット』に出演するアーティスト11組のブッキングをプロデューサーの疋田拓がすべておこなっているのを目の当たりにした。
「毎週売れている歌手を並べて番組を作る。それはそれで価値があるんですが、ぼくはイヤですね。歌手を番組の中でうまく生かしてみたいし、それにドラマとしての性格も歌番組の中に生かしてみたい」(※4)
そんな強いこだわりでキャスティングしていたのだ。一方で、それだけではない懐の深さがあったことをきくちは証言している。
「これは疋田さんのすごいところなんですが、11組の中に遊びの枠と言いますか、『自分にはよくわからないが、若いやつがいいというなら入れてみよう』ということをたまにしてくれるんです」(※5)
当時、きくちはブレイクする前のBOØWYの「わがままジュリエット」が好きだった。そのテープを聴いてほしいと疋田に渡すと、実際に聴いてくれて、「若いやつがこんなにいいって言うのだから、これはいいのかもしれないぞ」と11組の中に入れてくれる柔軟性があったのだ。
「自分が分からなくても若い人たちの意見を取り入れる」というやり方を教えてくれたのが疋田だと、きくちは言う。
昨今、音楽番組はアーティストや事務所の意向が最優先される傾向がある。もちろん、それは正しいことだろう。けれど、テレビ番組である以上、面白くするためには、キャスティングやその演出方法でアーティストや事務所とぶつかることもある。疋田は、それに戦い続けた。
2021年に受けたインタビューで疋田は次のように語っている。
「生意気な言い方になってしまいますけど、今はアーティストに仕切られているように見えます。構想があっても、製作者は遠慮しているのかなと。僕は『ヒットスタジオ』で事務所や歌手に何か言われたら、『もう出なくていいよ』って答えていました。それぐらいの覚悟じゃないと、自分の考えは実現できませんよ。番組に魅力があれば、アーティストも乗ってくれる。逆に、そういう製作者を望んでいるんじゃないですかね? 本物は特にそうだと思いますよ」(※6)
(参考文献)
(※1)『フジテレビジョン開局50年史 : 1959-2009(昭和34年~平成21年)』(フジ・メディア・ホールディングス)
(※2)「女性セブン」2022年2月17・24日号
(※3)「週刊朝日」2023年6月9日号
(※4) 伊東弘祐・著『ブラウン管の仕掛人たち テレビ最前線・現代プロデューサー事情』(日之出出版)
(※5)「Musicman」2009年3月17日
(※6)「文春オンライン」2021年12月30日
<了>