てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「三宅恵介」篇

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てれびのスキマの温故知新〜テレビの偉人たちに学ぶ〜「三宅恵介」篇

てれびのスキマの温故知新~テレビの偉人たちに学ぶ~ 第73回



「三宅さんていうのは今、日本一のディレクターやね。これはもう全然ヨイショでもないし、すばらしい。お笑い界にとっては絶対に必要なディレクターですね」

1985年に発売された『宝島』(7月号)で明石家さんまがそう絶賛する男こそ三宅恵介である。

当時は『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)が全盛。そのチーフディレクターを務めていた、まさに「楽しくなければテレビじゃない」フジテレビを象徴する演出家といえるだろう。

三宅は「恵介坊ちゃま」と呼ばれていたほど、いわゆる"いいとこ"の出だ。 日本舞踊花柳流の舞踊家の家系で、父は花柳啓之。音楽番組の振り付けやバックダンサーで有名な「花柳糸之社中」を率いる花柳糸之の師にあたり(そのため、『オレたちひょうきん族』などでも花柳糸之社中が舞踊を担当した)、啓之もまた草創期の歌謡番組で振り付けをしていた。

その中には美空ひばりや、三波春夫、橋幸夫、杉良太郎など錚々たる芸能人がいた。中でものちにプリンセス天功となる朝風まり(当時)は、住み込みの「弟子」として日舞を学んでいたという。彼女からもやはり「恵介坊ちゃま」と呼ばれていた(※1)。

幼稚舎から慶應義塾で学んだ三宅は、何しろお坊ちゃん気質。会社勤めは性に合わないと就職先をなかなか決められずにいたところ、ちょうど父の日舞のビデオを販売することになったフジポニーに、父の勧めで面接に行き、1971年に入社した。

まさにこの年、フジテレビは、時の社長・鹿内信隆による経費削減策のために、制作部門を分離した。そこで生まれたのが、フジポニーなど4つの制作プロダクションだったのだ。 だが、これが裏目に出る。制作社員のモチベーションの減退を招き、フジの暗黒時代を招いてしまったのだ。

それが好転したのが、信隆の長男・鹿内春雄による構造改革。1980年に、「制作局」を再発足させたことをきっかけに『THE MANZAI』などの人気番組が生まれていった。このとき、三宅はフジテレビに転籍することとなった。 まさに三宅は、フジテレビの転落から好転までを、そのキャリアとともに体感したのだ。

「正直な話、大阪のスタッフで認めるヤツはいてないんです。大阪ではいっつも"あー、もうこいつらにゆうても、どうせわからへんわ"いう流れでやってたんです。それが三宅さんは......芸人の立場になって、物事をとらえてくれるんですね」(※2)これも、冒頭の言葉と同じ時期の明石家さんまによる三宅恵介評だ。

そんな三宅は、「どうしたら面白い番組を作れるのですか?」という質問に対し、そんなものがわかれば苦労しないと思いつつ、いつもこう答えるという。

「流れを大事にすること」(※1)

企画の準備から、演者との打ち合わせ、リハーサル、本番とうまく「流れ」ができていく番組は、いい番組になることが多い、と。

それを象徴するのが、三宅が演出し"伝説"となったコーナー「さんま車庫入れ企画」。

1991年の『FNSスーパースペシャル1億2000万人のテレビ夢列島'91』(いわゆる現在の『27時間テレビ』)で行われた、さんまの愛車レンジローバーをビートたけしが運転し、車庫入れするもブロック塀に衝突させてしまうというものだ。それを最初からやろうと思って企画したわけではないと三宅は言う。

当初は例年通り『BIG3ゴルフ』の企画で3人がゴルフの練習をするという企画だった。だが、その打ち合わせで、三宅が「そういえば、さんまさんが免許を取ったみたいですよ」とたけしに雑談の中で話したのだ。

「だったら、さんまに車庫入れをさせてみたら面白いんじゃないか」実はさんまは、レンジローバーを購入するも、自宅ガレージに駐車する際、二度も接触事故を起こしてしまったことをネタにしていたのだ。タモリにも同じ話をしたら、同じことを言われた。しかし、問題はさんま本人である。何しろ愛車が傷つく可能性のある企画だ。

三宅は恐る恐るこう切り出した。 「もしも、このレンジローバーが傷ついて... ...でも、ものすごくウケるような状況になったら... ...どうしますか?」 さんまは即答だった。

「そりゃ、ウケるほうがええ!」(※1)

さんまには、それだけを伝え、「車庫入れ」などの具体的なことは一切伝えず本番を迎えた。 芸人の生理を熟知し、その信頼感があるからこそ実現した企画だろう。

「番組の流れでそうなりゃいいなぐらいでやったのがああいう風になった」(※3)と三宅は振り返る。実際、ゴルフ企画の司会をしていた逸見政孝が、それとなく3人を駐車場の方に誘導していたのである。そしてタモリ、たけし、さんまはそれに応じ、即興で笑いを生み出していった。すべてがその場の「流れ」なのだ。

「台本には書いてないんですよね。こうなればいいなという流れはあるんですけども、その場の空気でああいう形になって。これはまさにドキュメント。みんな心配だから台本作るわけですよね。面白いものがあったらそっちいけばいいんですけど、みんな不安だから戻そうとする。台本通りやれば80点は取れるんでしょうけど。120点取るにはドキュメント性、その場で起きてる『何が面白いか』って判断に委ねないと。それがよく笑いの人たちが言う『笑いの神が降りてきた』と同じような現象」(※3)

『めちゃ×2イケてるッ!』の総監督として名高い片岡飛鳥は、そんな三宅を「師」と仰いでいる。

三宅から最初の日に教わったのが「空気を読めるようになれ」ということだった。いまでは広く一般的に使われる言葉だが、当時はまだ演芸用語、楽屋用語に近く、「なるほど、今日からはプロの世界だぞ、と言われたんだ」と理解した(※4)。

そしてもうひとつ、「演出家、ディレクターになるためには物事をすべて自分の言葉で説明できるようになりなさい」と言われた。

「演出家というものはスタッフ、タレントを引き連れて進むときに、言葉足らずじゃダメで、みんなが理解できるように言葉を尽くして説明するのが仕事。『わかんない』と言う演出家にはみんなついて行きたがらない。プロとしてすべてを説明できる人になりなさい、との教えだと自分なりに理解しています。(略)面白いことを発想するのは、自分だけでなく、作家やタレントでもいい。でも説明はこっちの仕事。面白いことを思いつく以上に、面白いことを説明する作業がプロの演出家としては大事なんだと思います」(※4)

片岡は三宅の教えをそう代弁する。片岡の"盟友"である小松純也は、三宅から片岡へと受け継がれたフジテレビ流の演出術を次のように分析している。

「フジテレビの方法論は、外の環境を作ってしまってその中で自由に演者が動いてもらう。『めちゃイケ』がどこまでやっていたのかは総監督の片岡飛鳥じゃないんで分からないですけど、例えば、こういう状況があるというフィクションがあるとして、でも演者は本当にその情報を入れられているから本気でそれに対して動く。

だから、泣くし、叫ぶし、喜ぶし、バカなこともするし、面白いことが起こる。入ってくる情報をコントロールするんです。それが『ひょうきん族』とかで三宅(恵介)さんたちがつくってきたフジテレビ流の演出。徹底的に状況をつくって、あとは(ビート)たけしさん、さんまさんお願いしますって。それが拡大していったのが、フジテレビ的なドキュメントバラエティの作り方」(※5)

昨今、フジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」というポリシーを撤回した。果たしてそれは"正しい"のだろうか。

爆笑問題・太田光は「俺はあれに憧れてたから。それをやってきたのが高田(文夫)先生だったり、三宅さんだったり横澤(彪)さんだったりね、そういう中で日枝(久)さんが作ったコピーなんだけど、あれを何も否定することはないじゃない。(テレビが)楽しくなくなっちゃったんだから、そこが悪かったんじゃないの?」(※6)と疑問を呈していた。

三宅は『ひょうきん族』を振り返り、こう語っている。

「自分たちがおもしろくないと、見ているほうもおもしろくない。自分たちが楽しめるかってことにこだわって、ものを作っていったように思います」(※7)

そうやって、三宅恵介はテレビに「楽しい」という概念を生み出していったのだ。

(参考文献)

(※1) 三宅恵介・著『ひょうきんディレクター、三宅デタガリ恵介です』(新潮社)

(※2) 『Cancam』1985年8月号(小学館)

(※3) フジテレビ『週刊フジテレビ批評』(2012年7月7日放送)

(※4) 「文春オンライン」2019年3月30日

(※5) 「マイナビニュース」2019年4月9日

(※6) TBSラジオ『火曜JUNK爆笑問題カーボーイ』(2025年8月12日放送)

(※7) 『笑芸人』Vol.1(白夜書房)

<了>